昭和41年10月27日 夜の御理解



 椛目ここ十六年間の事を振り返らして頂くと、様々な問題様々な難儀な事、とても出来るだろうかと言った様な事が、そういう問題のたんべんにおかげを受けて来た。出来るだろうかと思われる様な事が、いつも間一髪と言う様な所で、おかげ頂いて来た。ですからここで十六年間の事を思うてみても、あの調子でいわばこの調子でおかげさえ頂いていけば、是からとても安心だと言った様なものが。
 私の心を始め皆んなの心の中にもあるんです。まっそれはいうなら安心のおかげでしょうけれども。それはあまりもの安心であって、本当のもんじゃないと私は思うですね。ああいつもぎりぎりに、ああしておかげ頂いとるんだから、どんな問題が起こっても、それが返っておかげの元になっているんだから、確かにそうなんだ。けれどもねそれだからというて、それにその安易にしておったんでは、ほんなこつじゃない。
 先日ある方が椛目の危機と言う事を神様にお知らせ頂かれた。どういう意味の事だろうかと私は思うた。そしたらその私の心の中にです、今度の御造営が始まってこの方に、私の心の中にある物はですね、矢張りこの神様一途にお縋りしておるんですけれども、これだけの信者がおってくれるから、というものがあったから、いけなかったと思う。うちには誰がおってくれるから、誰々が一生懸命やってくれるから。
 そういう思いがある時に、その誰々が一生懸命やってくれなかったりすると、もうその人の心を叩きたいと言う様な気がする。そんな事で良いか。例えていうなら家族の者なら家族の者がです。こういう大変な事があっておるのに、あんた達が一生懸命信心してくれなかったらどうするかと。ここに一ページが無かったらどうするか、と言った様な内容が私の心にあったと言う事である。それこそ椛目の誰れが彼れが、家族の者がそれに本気になって修業しなくても取り組まなくても。
 私の心の中に安心のおかげを頂いておったら、それで良いのである。しっかりやってくれなきゃ困るよと、あんたを頼りにしとるよと、と言った様なものがです、ある間は成程危機だと言う事です。それでは危ない誰が見ていようが、誰が一生懸命なるまいが、誰が生き生きとした信心をするまいが問題じゃない。私の心の中にそういうものを頼らんという心がおこった時が、私は本当の安心だと思う。ははあ危機と云われたのは、この事だなあと私自分でこりゃ私一人考えた。
 ですから私はそのこんな一生懸命の事があっておるのに、あんたそれで良いかと言った様な事の思いが、ちらっとでも心の中に動いたら、それと取り組んで、そんなこたあ問題じゃない。その人に加勢して貰わんでもええ、その人に頼まんでもいい、お縋りするならもうどこまでも神様一本でいくんだというです。だから誰が無信心になってもです。どのように例えば、ほんなら大幹部がです、その事に無関心であってもです。私の心が引っ掛らんで済む、それを責めようとせんで済むおかげを頂けた時がです、本当の安心のおかげであると言う事。……
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